★出産しました★
4月7日に女の子を無事に出産しました。
まもなく生後2ヶ月を迎えるわが娘。
出産前から切迫早産で自宅での絶対安静となり、正産期に入ったと思ったら骨盤が小さく子どもが出てこれない可能性があるとの診断になり帝王切開での出産。
生まれてからの2カ月間は、30分1時間おきの授乳に疲弊し、ベッドに置いたら泣き出すのループで腹の上に娘を乗せて寝たり。朝、目覚めたら腹の上の娘がいつのまにか私の横でちょこんと寝転んでいる姿をみては癒されたり。なんで泣いてるのかわからなくてこっちが泣きたくなったり。
泣いたらなにはさておき子どものことを第一優先に動く。自分のやってたこともやりたいこともいったんよそにおく。
出産したら自然にお母さんになるってのは違ってて、こういう過程を通して母になる覚悟を決めていくのだということが身に染みた二ヶ月でした。
「よし、今日はとことん付き合ってやる!泣いてもわめいてもどんとこい!」って覚悟を決めた瞬間ころって寝てくれたり、、、なんてこともありました。
私はこの子にお母さんにしてもらったのだなぁ、お母さんにしてくれてありがとうという気持ちです★
過去と向き合い、解放されていく~桜木紫乃『風葬』
ここ2年ほどで結構好きな作家さんです。
私の感じる桜木さんの作品の魅力は「女性」。女性であるがゆえの醜さ・愚かさを描くのと同時に女性だからこその忍耐強さ、賢明さを感じさせてくれます。
どろどろしてるんです、、、、本当に。
今回のお話。
認知症の症状が出始めた母の一言である「ルイカミサキ」。この言葉に惹かれるように自分の出生の秘密を知ろうと動き出した夏紀。
一方、定年退職をした元教師・沢井徳一は「涙香岬」をみたいと自分を訪ねてきた夏紀と出会い、教え子の不審な死の真相を知るために動き出す。
徳一とその息子・優作は命の危険にあいながらも真相に近づいていく・・・・というお話。
認知症の母・春江は最後まで夏紀に真実を話さないんです。人は自分の弱さや幼さを半ば正当化したいがために話すということもあると思います。でも春江は絶対話さない。最後まで読み終わったときに「そうか、これは生きることへの覚悟だったのか。」と感じました。
夏紀は結局最後まで自分の出生の秘密は知らないままで小説は終わります。
徳一の教師としての悔い、父の姿を通して再生への道を歩み始めた息子の優作のストーリーからもいろいろなことを深く問いかけられたように思います。
過去に囚われることは人間の愚かな側面かもしれません。でも過去から解放された時にその人の道を歩んでいくことができる。過去をたどることで自分の生きる道を照らしていく・・・・。
静かな希望を感じさせてくれる1冊でした。
スターの目線に困った日~宝塚花組公演観てきました~
これまで真面目な内容ばかり書いてきましたが、超インドア派オタク気質でもあるので、趣味のこともゆるーく書いていこうと思います。
私の趣味のひとつは宝塚観劇です。初めて宝塚を観たのは約20年前の高校生の時。
天海さん、真矢みきさんがトップの時代でした。大学生になったり、社会人になったりで離れていた時期もあります。
ここ最近もドストライクのスターさんがいないせいか、少し離れ気味だったのですが、久々に観劇してまいりました。
花組公演「雪華抄」「金色の砂漠」です!SSWのお仲間と観劇してきました。彼女は私の前から宝塚を観ていたという方。
今回の席はなんと!前から2列目の超良席。
友の会に入って約10年。こんな良席、初めてでした。友の会さん、ありがとう~。
花組さんを観るのは、なんとアーネストインラブ以来、、、。花乃まりあちゃんのトップお披露目以来です。
今回は日本物のショーとお芝居の二本立て。
日本物のショー「雪華抄」は幕開きからのチョンパ。明かりがついたら目の前の銀橋にスターが勢ぞろい。とにかく華やかで、中だるみすることなくあっという間の50分。
そしてお芝居の「金色の砂漠」
物語の舞台となる国では、王族に女の子が生まれたら男の子の奴隷、男の子が生まれたら女の子の奴隷をつけるという風習があり・・・・という設定。
トップスターの明日海りおさん演じるギィは、トップ娘役花乃ちゃん演じるタルハーミネ(第一王女)の奴隷。なぜこんな仕打ちを受けなくてならないのかという屈折した思いを抱えながらも王女への恋心を隠せないギィ。タルハーミネの婚礼の前日、激しい思いをぶつけるのです。そして翌日、奴隷と通じ合ったことが父である王に知られたタルハーミネはみんなの前で「愛してなどいない!」と激しく言い渡すのですが・・・。
設定は絶対ありえないのに、舞台全体が金色の砂漠の世界観でいっぱいに包み込まれている感じでいっぱいに。
最後、砂漠の上で激しくお互いの思いを伝えあい、息絶えるところがですね・・・・
美しいの一言。
本当に美しい舞台でした。
修復的対話
スクールソーシャルワークの勉強会で「修復的対話」を学んでまいりました。
修復的対話とは、人間関係におけるトラブルを対話によって解決する方法。もともと司法分野で取り入れられていた方法ですが、学校現場での実践に用いられるようになってきたそうです。
例えばいじめの問題。
いじめの問題は自分たちのクラスで起こった問題として捉え、自分達で話し合って解決していくことを目指します。あくまで当事者主体であることにこだわります。
午前中は修復的対話とはなんぞやという講義、午後は予防的な意味合いを持つRJサークル、トラブルのあった当事者同士で対話による解決を目指すコンファレンスをロープレで体験しました。
RJ サークルは、あるお題を出してそれについて参加者が自分の意見や考えを述べます。今回は床に折り紙をちりばめて、「自分を洗わす色は?」「なりたい色とその理由は?」というテーマに沿って折り紙を選んで話します。
自分の意見を伝えて、相手の話を聞いて、、、。対話をする経験ができる修復的対話。
1対1での支援関係では実現できない、横のつながりで実現できるものがある。そんな手応えを感じた勉強会でした。
来月は、ロープレ中心の勉強会に参加してきます!
シンポジウム
久々のブログ更新となりました。
とある学会のシンポジウムに参加してまいりました。
テーマは「子どもの成長発達とスクールソーシャルワーク」
丸1日かけてのシンポジウムで、内容は盛りだくさんでした。
自治体の取り組み発表、学校コンサルテーションの講義を聞きました。
それぞれの内容はとてもよかったのですが、テーマだけ決めて登壇者を当て込めたのかしら??と感じたことは事実で一貫性が感じられなかったという・・・・。企画段階で現場のSSWが実践で活かす/自己を振り返るというところまで練られたのか??という疑問が湧いたのは正直な感想です。
その中でも立教大学大石先生の学校コンサルのお話はとても勉強になりました。私たちは外部の専門職として学校に行くわけですが、外部の人間である以上助言ができない。ではどのように学校の先生の懐に飛び込んでいくのかという基本的な姿勢の重要性を学ぶことができました。
学校コンサルのお話はとてもよかったのですが、SSWの実際の活動と開きのあるお話だったのかな?と感じるところもあって、なぜSSWが学校コンサルを学ぶのかということを入れて欲しかったです。
びっくりしたことはですね。
ある自治体の取り組みの発表に対する質問が福利厚生や給与体系に関する質問ばかりだったこと。午後の学校コンサルの講義に対しては質問があまり出なかったんです。
お昼休みは知り合いのSSWの方とごはんを食べ、他の自治体で働くSSWの方を紹介していただきました。お昼休みの話題は「〇〇の自治体は給与がいい」「〇〇の自治体で募集かかってるわよ」あげくの果てには自分の働く自治体の不平・不満。
SSWは単年度契約の非常勤職員の方がほとんど。1年ごとに身の振り方を考えなくてはなりません。どうしても自分自身の身分の保証に意識がいってしまう。50歳を過ぎた方なら尚更なのかなと思います。
SSWの働き方、自治体の採用のあり方にも課題はあると思います。
それにしても、意識が低すぎやしないか??
社会福祉士・・・・合格率の低さの割には社会的な地位は低いです。
私はかろうじて30代。来年度の身の振り方に右往左往するような自分ではいたくないものです。志を高く、自分を磨いていきたいと思った1日にもなりました。
夏休みは読書
夏休みなので普段学校の先生とやりとりすることが多い私も夏休みは少しゆとりができ、いろいろな本を読んでいます。
最近読んだ本は
大阪二児置き去り事件のルポと岡田尊司さんの「愛着障害」です。
大阪二児置き去り事件が起きたのは2010年。
幼い子ども2人がマンションの一室で餓死するという事件で、衝撃を受けたことを覚えています。2人の子どもがインターン越しに母親を呼び、叫ぶ姿を想像するだけで胸が苦しくなりました。
当時、テレビでは、2人の子どもを餓死させた母親が夜遊びをする姿を報道し、母親の非難する内容のものが中心でした。
この本では、この母親がどのようにして育てられた女性なのかを丁寧に取材することで、養育環境の不十分さがどのようにその人の行動、思考、パーソナリティに影響を及ぼすのかを明らかにしています。
関係性の貧困の典型的なパターンだと思いますが、貧困の連鎖の深刻さを感じた1冊でした。
声を上げる術を知らない人にどうしたら支援の手が届けられるのか・・・・
考えさせられました。
感じたことは、現代において愛着の不安定さを持っている人はめずらしくなく、どこでも出会う可能性があるということ。そういう人と接していると、無意識レベルで影響を受けると思います。
気持ちが落ち込んでいると、本に書かれているような物事の捉え方になることもあります。
自分を見つめるという意味でもとても勉強になる本だと思います。
「孤立」と「孤独」の違い
愛に疎まれて―“加藤智大の内心奥深くに渦巻く悔恨の念を感じとる”視座 (サイコ・クリティーク)
- 作者: 芹沢俊介
- 出版社/メーカー: 批評社
- 発売日: 2016/01
- メディア: 単行本
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芹沢俊介さんの「愛に疎まれて」を読みました。
秋葉原の無差別殺傷事件の加藤死刑囚が残した言葉
「人間近すぎ過ぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別で殺す」
受止め手がいないことがどのように子どもの発達段階に影響を及ぼすのか。
養育論の視点から加藤死刑囚の考え方や行動パターン、事件が起きるまでの過程を分析する一冊です。
受止め手を得た子どもの状態=「子どもは誰かと一緒にいる時一人になれる」
内在化された受けとめ手、言い換えれば絶対の信頼の対象としてのだれか。この誰かが内側に一緒にいるなら子どもは一人生きていける。
「孤独」ではない。
〇親子関係のあり方
子どもに、安心と安定を核にした存在感覚、「今、ここに安心して安定的に自分が自分であっていい」という存在感覚をなによりも優先して提供することを基本とする。受けとめられ体験をもらった状態がもたらす存在感覚は、「ある」という言葉で表現できる。
この大前提から加藤死刑囚の家庭環境は受けとめられ欲求が充足される環境ではなかったこと、母親の虐待からどのような思考パターン(特に人間関係の対処の仕方)を身に着けていったのかが細かく論じられていました。
私が特に感じたところは「孤独」と「孤立」の違いについて。
加藤死刑囚が徹底的に恐れたものは「孤立」。
加藤死刑囚はずっと一人ぼっちだったのではなく、その場所その場所で友達が多くいて、スケジュール表は予定で埋め尽くされていたこともあった。
孤立を恐れるが故にスケジュールをいっぱいにしていた。
しかし、著者は「孤立」は恐れるものではないと語っています。
特定特別の誰かを内在化できていれば(「ある」の状態が内在化されていれば)その人は一人ではなく、ほんらいの友人関係を作る力も内部に持っている。
本当に恐ろしいのは「孤独」であり、加藤死刑囚は「孤独」であることに目を背け、スケジュール表をいっぱいにすることで本質的な問題に蓋をし続けてきた。
孤独でなければ問題はなく、一人の時間があっていい・むしろ一人の時間が大切であること。
私が仕事で接している、学校に行きたくない子どもたち。
存在論で見れば、「学校に行かない」というリスクに代えても得たい何かがあるとみることができると思います。
子どもたちの「ある」を保証していくことが私の仕事なのだと改めて考えさせられました。
そういった子どもたちに「する」ことを求め「学校に戻させよう」とすると、不完全燃焼のまま不登校の期間を終えることになってしまう。
振り返った時に意味がある出来事だったと思えるように、家族を支え、子どもの隣に存在できる人でありたいです。
支援をする側は何かしらの「行動が起きた」時に焦点があたりがちです。
そうではないことを心に深く留めていきたいと思いました。