たまに真面目なひとり言

真面目なお話たまに好きなものをゆるく語ります

支援を届けるために

今日は何年か前から関わらせていただいている私立高校での進路相談のお仕事でした。相談内容は文理選択、大学選びのことなどが中心でした。

午後はbond projectの活動報告会に参加しました。10代20代の生きづらさを抱える女性への支援をおこなっている団体です。

以前、若年無業者の自立就労支援に携わっていた時、相談に来る方の大部分は男性であったこと、窓口には来ない女性の支援対象者の方の存在について感じていたことがあり、関心を持っていました。

報告会では、どのような女の子たちを支援しているのかの説明を映像などを見ながらお話してくださいました。

◯普通に学校に通い、普通に友達もいる。けれどどこにも居場所がないと感じている。いい子でいないと親に認められない。

◯親の虐待から自己肯定感が低く、自分を大事にできない。自分から大変な状況に突き進んでしまう。

◯性的被害を受けやすい。
一瞬でいいから認められたいと援助交際をしてしまう。

◯自分の状況が整理できるようになるまで何年もかかってしまう。

彼女たちは、相談窓口に行くことは何かひとつ解決しなければならないと思い込んでいることも多く、行政の支援に繋がりにくい現状などをお話してくださいました。

支援を届けるために、忍耐強く彼女たちの生きる力を信じてゆるやかに繋がり続けていくという姿勢の重要性を感じました。

何よりも、窓口を構えているだけでは出会えない方たちにこちらから出会っていく。行動に起こしていくという姿勢に多くを感じ、学ばせていただきました。


個人化の時代

私はこれまでキャリアカウンセラーとしてお仕事をしてきましたが、福祉的な視点の必要性を感じ、通信制の大学で社会福祉士の資格取得に向けて勉強をしています。

 

今日は、「心理学」の単位取得。

コミュニケーションの章で、現代社会における「生活の問題」について触れた箇所がありました。

そのひとつに「生活の個人化」があります。

 

「個人化」について、先日参加した勉強会での芹澤俊介さんのお話の中にも出てきたので、書きたいと思います。

勉強会のテーマは川崎中1男子殺害事件でした。

「なぜ被害者の少年は少年グループに引き込まれていったのか」

 

それまでの少年犯罪は集団犯罪が多かった。それが神戸の事件を境に単独犯罪となっていく。携帯電話の普及により個人化は加速していく。

個人化は自由であることの代償として「どこにも居場所がない(孤独)」(よるべない状態)状態を抱えることになる。どこにも居場所がない(よるべがない)子どもたちが集団化していく。

 

このよるべなさをキーワードに被害者の少年がなぜ少年グループに引き込まれていったのかを論じてくださいました。※内容については割愛します。

 

「よるべない状態」に反対に位置するのが「ある」という存在感覚。

ウィニコットによれば、「子どもは誰かと一緒のときに一人になれる」

この存在感覚が根ざしていれば子どもは誰かとつるまなくても歩んでいけるのだそうです。

 

この存在感覚は「受け止め手」の存在なしには形成されない。

子どもが誕生して母親が3ヶ月、半年でも受け止め手となっていること。

この期間は母親にとって原初的母性的没頭体験である(べき)。

「狂気の時間」と表現されております。

 

原初的母性的没頭体験については、芹澤俊介さんの本に詳しく書いてあります。

 

家族という意志――よるべなき時代を生きる (岩波新書)

家族という意志――よるべなき時代を生きる (岩波新書)

 

 

話は変わりますが

今日、家の前に野良猫がいました。やせっぽっちで体も汚れていました。

数日前からうろうろしているのは見かけていたのですが、今日はなぜかずっと私の家の前にいました。買ってきた猫のえさをあげたところぺろっと平らげてしまいました。私のした行為は自己満足で無責任な行為です。私は猫アレルギーで猫を飼うことができないくせに、中途半端に構ったからです。

 

それは置いておいて、思ったことは「野良猫を見ることが久しぶり」ということです。

本当は野良猫ってもっと世の中にいるはずなのに、すごく久しぶりに野良猫を見たのです。野良猫を見ないということは、誰かが見ないようにしてくれていると思うのです。

見なくていいものを見ないように世の中が動いていること。

私たちの綺麗で便利で当たり前の生活の裏に黙殺されている声がある。

例えば、ひきこもりに悩む家族や貧困の女性、性虐待、、

そういう問題ひとつひとつに向き合うことは勇気がいることですが、勇気の持てる支援者でありたいです。

 

 

 

 

 

 

『子どものための親子論』

社会学者である芹澤俊介さんの『子どものための親子論』を読みました。
 

子どもの里親になった人とその子どもの事例を通して、子どもに必要な親子関係を提起。

親子になることを困難にする子どもの「試し行動」とはその子どもが生きていくために不可避な自己表出であることを論じる。
 
子どもは純真無垢で生まれてくるのではない。いろいろな負荷を背負っている。子どもは受け止め手によって受け止められた時に自分の課題を背負っていくことができる。
子どもにとって「受け止め手」の必要性を徹底して論じる。大人の「だって」「でも」を介在させてはならないことを訴える。
 
受け止め手の不在による問題は、社会的擁護が必要な子どもだけの問題ではない。どの子どもも受け止められず、子どもの存在感覚が脅かされている状況であることを踏まえ、産みの親から受け止め手としての親になるという移行過程の重要性を論じる。
 
『受け止め手になる』こと。
支援者として口で言うほど簡単ではないことを突きつけられました。
 
仕事で出会う子どもたちから発せられる行動や言葉に寄り添っていたかどうか、、反省しつつ、自分と向き合う覚悟を問われる一冊でした。
何時までに◯◯させなきゃ、とか無意識に『させる』(『ある』という存在感覚は『する』に先行しなければならないというウィニコットの言葉でご説明されてます)ことに意識が向いていたことに気付きました。
 
信頼関係の大切さ。
こんなに基本的で簡単なことだけど忘れてしまっておりました。