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支援者として成長するために

真面目な仕事のお話&ときどき好きなものをゆるく語ってます

「孤立」と「孤独」の違い

 

 

芹沢俊介さんの「愛に疎まれて」を読みました。

秋葉原の無差別殺傷事件の加藤死刑囚が残した言葉

 「人間近すぎ過ぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別で殺す」

 

受止め手がいないことがどのように子どもの発達段階に影響を及ぼすのか。

養育論の視点から加藤死刑囚の考え方や行動パターン、事件が起きるまでの過程を分析する一冊です。

 

ウィニコット

受止め手を得た子どもの状態=「子どもは誰かと一緒にいる時一人になれる」

内在化された受けとめ手、言い換えれば絶対の信頼の対象としてのだれか。この誰かが内側に一緒にいるなら子どもは一人生きていける。

「孤独」ではない。

 

〇親子関係のあり方

子どもに、安心と安定を核にした存在感覚、「今、ここに安心して安定的に自分が自分であっていい」という存在感覚をなによりも優先して提供することを基本とする。受けとめられ体験をもらった状態がもたらす存在感覚は、「ある」という言葉で表現できる。

 

この大前提から加藤死刑囚の家庭環境は受けとめられ欲求が充足される環境ではなかったこと、母親の虐待からどのような思考パターン(特に人間関係の対処の仕方)を身に着けていったのかが細かく論じられていました。

 

私が特に感じたところは「孤独」と「孤立」の違いについて。

加藤死刑囚が徹底的に恐れたものは「孤立」。

 

加藤死刑囚はずっと一人ぼっちだったのではなく、その場所その場所で友達が多くいて、スケジュール表は予定で埋め尽くされていたこともあった。

孤立を恐れるが故にスケジュールをいっぱいにしていた。

 

しかし、著者は「孤立」は恐れるものではないと語っています。

特定特別の誰かを内在化できていれば(「ある」の状態が内在化されていれば)その人は一人ではなく、ほんらいの友人関係を作る力も内部に持っている。

 

本当に恐ろしいのは「孤独」であり、加藤死刑囚は「孤独」であることに目を背け、スケジュール表をいっぱいにすることで本質的な問題に蓋をし続けてきた。

 

孤独でなければ問題はなく、一人の時間があっていい・むしろ一人の時間が大切であること。

私が仕事で接している、学校に行きたくない子どもたち。

存在論で見れば、「学校に行かない」というリスクに代えても得たい何かがあるとみることができると思います。

子どもたちの「ある」を保証していくことが私の仕事なのだと改めて考えさせられました。

そういった子どもたちに「する」ことを求め「学校に戻させよう」とすると、不完全燃焼のまま不登校の期間を終えることになってしまう。

振り返った時に意味がある出来事だったと思えるように、家族を支え、子どもの隣に存在できる人でありたいです。

 

支援をする側は何かしらの「行動が起きた」時に焦点があたりがちです。

そうではないことを心に深く留めていきたいと思いました。