たまに真面目なひとり言

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ライフステージとしての不登校・ひきこもり

高岡健さんの「不登校・ひきこもりを生きる」を読みました。

「子どもが不登校やひきこもりになったらなるべく早く介入して外に出す」という方法でひきこもりとその家族を支援する人たちの言い分とはまったく逆の立場で、「不登校・ひきこもりをライフステージと捉え、「ひきこもりをどう見るのか」を提示。

 

「みんな一斉がいい」という学校教育の流れの中では、矛盾を感じて学校に行きたくないと思うことのほうが健康的な姿だと。

時々欠席したり遅刻したり、小さくひきこもっていきながら自分の時間を大切にするという生き方が必要なのだということが全般にわたって書かれていました。

 

深く同意したのですが、その中でも印象に残った箇所が下記です。

  〇不登校・ひきこもりのゴールは学校復帰や社会復帰、就労ではないこと。

「点で考えていた思考が平面で考えられるようになった時」

「立体的に自分で考えられるようになった時」が彼らの喜びになるのではないか。

社会参加しようしまいと就労をしようしまいと「自分の考えが広がる時が必ず来る」「人生の幅を広げていく時が必ず来る」

 

〇ひきこもりの中には過去の自分を遡って、自分の小さいころの傷付きに収れんしていき、身動きが取れなくなってしまう人がいる。

→他者の参照をして自分を見出していく方法。

小説の中や映画の中の人生を通して自分を見つめなおしていくことにより、傷つきに収れんしていく痛々しさを相対化していくことができる。

 

〇支援に携わる人ができることは無条件に認めるたった一人の存在になること。

大事なのは「斜めの関係」

社会の中で地位がある人よりも尊敬されていない人がいい。なぜなら後ろから見守る関わりができるから。

 

点で考えていた思考が平面で考えられるようになった時・・・・

私の弟の姿を通して納得することができました。

 

私の弟は大学を中退したあと仕事につきましたが、3年ほど勤めて退社。

その後3年間ひきこもっていました。食事も部屋で済ませ、家族とも会話をしないようになりました。

家族から見ると何を考えているのかがわからず、怠け者にしか見えずとても悩み苦しみ、やきもきしました。しかし、父も母も弟には何も言わず、見守っていました。

ひきこもり始めてもうすぐ3年という時に弟がアルバイトを始めました。リビングに置いてあった郵便局の募集チラシをみたようでした。そのアルバイトを始めてから、何がどう変化したのかわからないのですが、目標を自分で見つけて職業訓練校に通い始めたのです。

職業訓練校に通っている今、週5日の授業の合間に早朝、深夜のアルバイトをして、家にお金を入れてくれています。人付き合いも積極的になり、学校の先生に可愛がられクラスメイトともよくごはんに行っています。なまけ者だと思っていた私たち家族は弟の変貌っぷりにびっくり。

最近になって、あの3年間のことをぽつりぽつりと話すようになったのですが、「自分にとって本当に必要な3年間だった」と言っています。何気ない言葉のひとつひとつが的を得ていて私と母が「なるほど」と納得することも多く・・・。ひきこもりという期間が充実していたから人生を深く見つめられたのだなぁと。

 

無駄な時間を過ごしているかに見えるひきこもりや不登校。ひきこもっている期間にも、ちゃんと人生を生きていること。エネルギーを溜めている期間なのだと信じ切ることが大切なのだと学ぶことができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

不登校・ひきこもりを生きる

不登校・ひきこもりを生きる