個人化の時代
私はこれまでキャリアカウンセラーとしてお仕事をしてきましたが、福祉的な視点の必要性を感じ、通信制の大学で社会福祉士の資格取得に向けて勉強をしています。
今日は、「心理学」の単位取得。
コミュニケーションの章で、現代社会における「生活の問題」について触れた箇所がありました。
そのひとつに「生活の個人化」があります。
「個人化」について、先日参加した勉強会での芹澤俊介さんのお話の中にも出てきたので、書きたいと思います。
勉強会のテーマは川崎中1男子殺害事件でした。
「なぜ被害者の少年は少年グループに引き込まれていったのか」
それまでの少年犯罪は集団犯罪が多かった。それが神戸の事件を境に単独犯罪となっていく。携帯電話の普及により個人化は加速していく。
個人化は自由であることの代償として「どこにも居場所がない(孤独)」(よるべない状態)状態を抱えることになる。どこにも居場所がない(よるべがない)子どもたちが集団化していく。
このよるべなさをキーワードに被害者の少年がなぜ少年グループに引き込まれていったのかを論じてくださいました。※内容については割愛します。
「よるべない状態」に反対に位置するのが「ある」という存在感覚。
ウィニコットによれば、「子どもは誰かと一緒のときに一人になれる」
この存在感覚が根ざしていれば子どもは誰かとつるまなくても歩んでいけるのだそうです。
この存在感覚は「受け止め手」の存在なしには形成されない。
子どもが誕生して母親が3ヶ月、半年でも受け止め手となっていること。
この期間は母親にとって原初的母性的没頭体験である(べき)。
「狂気の時間」と表現されております。
原初的母性的没頭体験については、芹澤俊介さんの本に詳しく書いてあります。
話は変わりますが
今日、家の前に野良猫がいました。やせっぽっちで体も汚れていました。
数日前からうろうろしているのは見かけていたのですが、今日はなぜかずっと私の家の前にいました。買ってきた猫のえさをあげたところぺろっと平らげてしまいました。私のした行為は自己満足で無責任な行為です。私は猫アレルギーで猫を飼うことができないくせに、中途半端に構ったからです。
それは置いておいて、思ったことは「野良猫を見ることが久しぶり」ということです。
本当は野良猫ってもっと世の中にいるはずなのに、すごく久しぶりに野良猫を見たのです。野良猫を見ないということは、誰かが見ないようにしてくれていると思うのです。
見なくていいものを見ないように世の中が動いていること。
私たちの綺麗で便利で当たり前の生活の裏に黙殺されている声がある。
例えば、ひきこもりに悩む家族や貧困の女性、性虐待、、
そういう問題ひとつひとつに向き合うことは勇気がいることですが、勇気の持てる支援者でありたいです。